マトのエッセイ
2012-06-25T05:59:05+09:00
matocello
前田昌利のエッセイ
Excite Blog
生と死を見つめて・・ちょっと真面目に^^
http://matocello.exblog.jp/17688313/
2012-06-24T00:07:00+09:00
2012-06-25T05:59:05+09:00
2012-06-24T00:07:13+09:00
matocello
未分類
人はそれぞれ畏怖するもの、敬愛するもの、執着するものなどがさまざまに異なりますが、一様に忌むべきものとして捕えられているのが「死」ではないでしょうか。
私は中学を過ぎた頃より、人の「死」というものに対する恐怖を非常に強く意識するようになりました。それは、私が多感であったその時期に、大好きだった叔父が上顎がんに侵され、闘病の末に壮絶な最後を遂げた姿を目の当たりにしたせいなのかもしれません。
幼少より音楽の道を歩んでいた私はやがて高校、大学と進むうちに、人の才能、貧富、容姿、などが生まれながらにして平等ではないということを感じるようになりました。
「人は生まれながらにして決して平等ではない」という意識は、やがて、個々人の「宿命」や「運命」というものと結びつくようになっていきました。
私は偏狭な運命論者ではありませんが、「人は己の持つ宿命や運命に強く人生を支配されている」というのは私の哲学です。それは、後年、それぞれの人生の軌跡をたどっていった時に明らかなる道筋として浮かび上がってくるもので、渦中にいる間はなかなかその存在にすら気がつかないものです。
先日、私は医学博士で東洋哲学研究所所長の川田洋一博士の著書、「宿命は変えられる」(第三文明社)という本を読んで大変に感銘を受けました。
博士は京都大学医学部で学ばれ、在学当時からドストエフスキーなどを愛読されてフロイトの「精神分析」などを研究されたそうです。その後、ユングの「深層心理学」などを学ばれ、仏教にも興味を持つようになったと書かれています。
そしてこの著では、フロイト、ソンディ、ユングらの西洋心理学と、東洋の仏教、とりわけ釈尊や天台の「法華経」とを縦横に論じながら人間の持つ生命の内奥の法則に迫ろうとされています。
書では、はじめに釈尊の出家のモチーフである「生・老・病・死」について触れたあと、釈尊の瞑想が「自我意識」を基点として「内なる宇宙」、すなわち己自身の生命の内奥の探求に向いていった事を解説しています。この人間生命の深層領域への探求は、西洋心理学では、フロイトの「無意識層」の発見、その後ソンディ、ユングからマスローらのトランスパーソナル心理学へと引き継がれていったと書かれています。
さらに、稀有の歴史学者であるアーノルド・トインビー博士の見識を紹介され、現代科学の二つの大きな発見を「物理的自然の領域」における「相対性」と、「心理の領域」における「無意識の深淵の解明」であるとしています。
そこで紹介されているトインビー博士の言葉は実に興味深いものがあります。それは、「相対性の発見が、物理的宇宙における人間の重要性に対するわれわれの評価を、あらためて少しばかり持ち上げたとして、人間心理の潜在意識の深淵の発見は、心理を媒体としての一個の人間は、それ自体で一つの宇宙であることを、われわれに教えた」(アーノルド・トインビー他、青柳晃一他訳「死について」筑摩書房)というものです。
私はこの文章を読んだとき、心の中にあるひとつの霧がスッと晴れていくのを感じました。通常、人間生命に内在する法則を解明しようというのは「医学の分野の仕事」と思われており、このようなヒトの心的側面の学問、とりわけ「深層心理学」の分野から人間生命そのものの解明に向かおうとするアプローチは、著者の言葉を借りれば「釈尊の悟達の究極に位置する宇宙根源のダルマ(法)」を万人が享受し得る法則として現代に蘇らせ、且つ展開させようという試みであり、現代の不毛の時代にあって暗夜の一光のような貴重な意味を持つと思われます。
現代の世界中におけるさまざまな凶暴かつ不幸な事件が「生命不尊」の哲学の横行によってもたらされているものだとしたら、これら偉大な先哲たちの持つ光が今こそ必要なのではないでしょうか。なぜなら、トインビー博士の結論「一個の人間の存在はそれ自体で一つの宇宙である」という哲学が、究極の生命尊重の哲学であり、現代を覆う生命軽視の哲学の対極に位置するものだからです。
フロイトは、『人間は中年期を過ぎると「死」への準備に入らなければならない』とのべていますが、この本では万人の共通の宿命である「死」の問題を深く掘り下げて探求していく時、人間生命の内奥に確実に存在する深層領域の根底に宇宙とのつながりを見出し、それが他者と深いつながりを持っていることを発見すると論じています。それが仏教で説かれる「縁起」という思想であり、「自己」と「他者」の壁を乗り越える「寛容の精神」に結びつくものであるとしています。
そして著者は最後に、『宇宙生命としての「法性」(現象の奥にある生命のありのままの姿)の「起」が生命体の「生」となり、「法性」の「滅」が生命体の「死」となるとすれば「生」と「死」は「法性」の次元に於いて一体である。換言すれば個々の生命体は「法性」、すなわち宇宙生命の基盤においては「生死」は「不二」であり、現象世界においては「生」と「死」の「而二」として顕在化と潜在化を繰り返すのです。』と述べられ、「宿命」とは永遠に続く個々の生命体が活動を繰り返す軌跡の中に形成されるものであり、現在の「行い」の中にこそ、その宿命を変える可能性の鍵が秘められていると結論されています。
要約すれば、現在の生活の中に見え隠れする鍵穴に、いかにして有効なキーを差し込むことが出来るかが「宿命」という道を変えゆくポイントであるということになるでしょう。
大いなる生命体の融合である「地球世界」を「平和の文明」へと導くための重要なカギがここに存在し、こうした人間生命を洞察した深遠な哲学を人類が共有するためにも、歴史上繰り返されてきたあらゆる異なる民族、宗教が対立した不毛な戦いを終焉に導く「宗教間対話」が必要であると叫ばれています。
「音楽」も時として野蛮な殺戮や独裁者の喧伝に利用されてきた残念な歴史が少なからずありますが、われわれ音楽家は心して平和な文化構築のために音楽を用いていくことが必要であり、そのためには自己の内面世界への探究、自己啓発に日々精進、努力することが大切である事を、この本を読んで改めて認識いたしました。
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悲しき はじかみオヤジ
http://matocello.exblog.jp/8877808/
2008-08-20T15:16:00+09:00
2008-08-20T21:24:43+09:00
2008-08-20T15:16:59+09:00
matocello
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今年の猛暑は半端じゃない。
地球温暖化現象なのだろうか、なんか、ハルマゲドン的様相を呈しているように思えてならない。
先週、妻の伯母が所有する別荘に夫婦で遊びに行った。
富士の十里木高原にあって、下界よりはかなり涼しい。
夜なんかはちょっと寒いかなと思うくらいである。
伯母と義従兄は長期滞在しているので、チェロを持ち込んだりして遊んでいたのだが、義従兄がゴルフに行こうと言い出した。
うちの奥さんは、ちょこっとやったことがあるらしいのだが、僕は全くやったことはない。
そもそも、僕はずっと、ゴルフはスポーツに非ず、ゲームであると主張していて、眼中になどなかった。
一時野球に夢中になっていた時も、「あんな止まった球が打てないやつは相当な運動音痴だよ」などと、ゴルファーが聞いたらパンチでも喰らいそうな事を平気で言っていた。
よく考えてみると、何が僕をゴルフ好きにさせなかったかというと、色々と理由は考えられる。
まず、ゴルフは、水泳、テニス、スキー、野球、サッカー、などアマチュアが楽しむスポーツとしては金がかかりすぎる。
しかし、それはゴルフというゲームの性格上仕方ないとして、それ以上に「教え好きゴルフオヤジ」の存在が嫌だったのかもしれない。
駅でもどこでも傘を振り回すオヤジプレーヤー。
初心者を捕まえては、スウィングのインパクトがどうの、スタンスの開きがどうのと、アマチュアゴルファーほど教え好きの人種はいないのではないだろうか。
特に若い女の子がクラブでも振ろうものなら大変である。
とまあそのような諸々の感情をを引きずりつつも、僕の年齢では出来るスポーツも少なくなってきているので、ここはひとつやってみようとコースに同行した。
それでも口では「なかなか難しそうだねぇ」とか言いつつも、野球でもバッティングには少々自信があったし、腹の中では幾分自信満々だったのだ。
素振り練習も教わって、「なかなかいいフォームだねぇ」などとお世辞を真に受け、気分よくいざティーショット。
コース上のラインを目で追って、カシーンと飛んでいく弾道を頭に描きながら、僕はドライバーを一気に振り下ろした。
と、手にものすごい衝撃が走った。
ボールの手前に着地したらしく、ボッコリと芝生がえぐれてしまったのだ。
照れ笑いをしながら、2打目。
今度は当たったという音がしたのだが、球はそのままの位置で地面に落ちている。
見ると、ボールとティーの埋まった部分だけが残って、ティー地上部分が折れてすっ飛んでいるではないか。
「いやあ、すごい!こんなショット見たことないよ(笑)」という義従兄の声。
次第に気になってくる後続の組のプレーヤーの視線。
ともかくこの球を前に飛ばして、この窮地を脱しなければ!
しかし、力いっぱい振った3打目の僕のボールは何を思ったか、打った方向と直角に、目の前で見ているギャラリーの前へ、まるでグリーン上のパットのようにコロコロと・・・・・
くすくすと起こる笑い声を背に、僕は仕方なくボールを拾い上げ、義従兄や妻が飛ばした地点まで足で運ぶこととなった。
フルショット
ボール飛ばずに
笑い飛ぶ
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禁断のパソコン
http://matocello.exblog.jp/5657740/
2007-06-19T11:50:00+09:00
2007-06-25T14:59:55+09:00
2007-06-19T11:50:57+09:00
matocello
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何だそんな事か、とお思いの諸兄も多いと思うが、なにせ団塊の世代の私にとって、パソコンの箱を開けるということはなかなか勇気のいる事なのである。
我々が過ごした少年時代は、いわゆる真空管時代からトランジスターというものに移行する時代であって、まだまだ「電気の通り道」というものが肉眼で確認できた平和な時代なのである。
スイッチを入れれば、真空管のほのぼのとした光が、冷たかったアンプやラジオに生命の活動が開始したことを感じさせてくれた。
だから修理をするにも、傷の手当てをするように血を通わせながら悪戦苦闘する事ができたのだ。
しかし、今のハイテクノロジーによって産み出されたさまざまな機器は、異次元空間からもたらされたかのような冷ややかさで仕事をする。
一見なんでもない壁からいきなり絵が映ったり、腕時計が歌い出したり、風呂に入れば「お湯の温度は・・・」とメイドのように細やかに気遣ってくれる。その仕事ぶりはまさに驚天動地である。
僕の使っているパソコンは真っ黒なボディの大きなデスクトップタイプなので、さながら「ブラックボックス」である。
「マイクロチップ」なんていうロボットが作り出した板を見ていると、こんな食べられない煎餅みたいなもので昔の真空管たちが一生かかっても出来ない仕事をやっているんだと思うと、薄気味悪くて、多少能率が悪くても恐れ多くてとても開腹しようなどとは思ってもみなかったのだ。
しかし、そんなことは意にも介さない現代っ子の生徒たちに促されて、ついに禁断の箱を開けることになった。
手術はあっけなく3分で終わって、パワーアップしたパソコン君は前にも増して生き生きと仕事をしてくれている。
今は「やってみるもんだ」という、少し成長した自分に対するささやかな満足感を感じている(笑)。
親しくなったパソコン君に名前をつけてあげよう。
「黒べえ」はどうだ。
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黄金週間
http://matocello.exblog.jp/5343681/
2007-05-10T00:05:00+09:00
2007-05-14T13:58:57+09:00
2007-05-10T00:05:47+09:00
matocello
音楽
毎年新しい演奏家が誕生し、緊張したり、感激したりとさまざまなドラマを見せてくれるのだが、一様に云えることは、皆さん、こういった本番を経ると大きく成長するということである。
やはり人間というのは、常に内なる自分と外にあるものとの闘いで成長していくものであるという事を改めて認識する。
「人生とは間断なき闘争の連続である」とはある偉大な先哲の言葉である。
最近、某有名コミック誌に連載されている、ヴァイオリン奏者をテーマにした漫画を読んだ。
その中で、作者は登場する一人の天才指揮者にこう言わせている。
「演奏会場とはホールであって、ホールでなし!!コロシアムである・・・・」
すなわちコンサート会場は、演奏家と聴衆の精神の闘技場であるというのだ。
多くの聴衆を前にヴァイオリンを演奏するという事は、たった一人で、楽器1つを武器にその場に立ち向かい、すさまじいプレッシャーとの闘いにいどむということであると彼は言う。
「人間が人間を楽しませる・・・音楽は闘い・・・!!」であると。
確かに僕の経験から言っても、ステージという場には、全く味方など存在しない。
共演者に甘える演奏家がいたら、それはもはや音楽を伝える奏者として落第である。
共演者とも、作曲家とも、そしてなにより自己との闘いに打ち勝ってこそ、聴衆の拍手という栄冠を手にする事ができると僕も思う。
そういう意味でたかだか発表会などとあなどるものではなく、フェスタに参加し悲喜こもごもを味わった皆さんは、本当の「黄金週間」を過ごせたのではないだろうか。
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ドイツのオペラ
http://matocello.exblog.jp/5044719/
2007-04-03T06:53:05+09:00
2007-04-03T06:53:05+09:00
2007-04-03T06:53:05+09:00
matocello
音楽
10日程の滞在であったが、4つのオペラを見る事ができて、非常に楽しめた。
といっても、僕はドイツ語がまったくわからないので、字幕を見てもチンプンカンプン。
しかも、歌は、イタリア語やフランス語で、こちらもさっぱり解らない。
じゃあ英語ならわかるのかと言われれば、「ごめんなさい」なので・・・・結局、日本語以外はダメじゃんという事になるのだ(笑)。
この事は、日本で何故オペラが普及しないかという事の大きな要因のひとつで、要するに、ヘンデルやモーツアルトの時代から親しまれてきたオペラはヨーロッパの母国語で歌われ、聴衆はその歌や音楽の世界を楽しんできたのだ。
ちょうど、日本で歌舞伎が発達してきたのと同じである。
しかし、オペラはその芸術性の高さから世界の文化として君臨するようになり、欧米文化の代表ともなった。
言葉の壁を越えて、なお楽しめる世界がそこにはある。
でもやはり、場内に笑いが起こった時に、僕も笑いたい・・・・・・
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チェロフェスタ2006終了
http://matocello.exblog.jp/2266767/
2006-05-23T12:06:00+09:00
2006-05-23T12:29:18+09:00
2006-05-23T12:06:22+09:00
matocello
教室の出来事
今年は直前になって、二人が怪我や仕事のために欠席したり、当日になってピアノの弦が切れたり、おまけに静岡から横浜の会場に向かっていた大ちゃんの車が、突然のアクシデントで故障。東名の本線上から、からくもギリギリに到着した。
何ともこのフェスタ始まって以来のアクシデント続きにみまわれた演奏会だったが、内容はそれらの逆風をはねのけるべく素晴らしいものだった。
毎年思うのだが、やはり楽器を学ぶ上で大切なのは日々の練習。
当たり前のことのようだが、その積み重ねが楽器を自分のものにしてくれるのだ。
そして、その積み重ねのためにバネとなるのが、節々の演奏会だったり、レッスンなので、このフェスタもそういう意味で毎年皆さんの技術向上の場となってきた。
とはいっても、音楽学生ならいざしらず、日々仕事や家事に追われながらの練習は大変な努力が必要で、その皆さんがよくここまで演奏されると感心させられるものである。
ますます上達されて、音楽に触れる喜びを深めていかれんことを祈らずにはいられない。
写真を撮ることが出来なかったのだが、川さんがフォトアルバムを作ってくれたので、見てください。
フォトアルバムを CANON iMAGE GATEWAY にて作成しました。
下記のURLからご覧ください。
http://www.imagegateway.net/a?i=J0LjbbeEUJ
パスワード:cello
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いくつかのコンサート 其の参
http://matocello.exblog.jp/978147/
2006-02-27T03:29:44+09:00
2006-02-27T03:27:36+09:00
2006-02-27T03:27:36+09:00
matocello
未分類
曲目はモーツアルトのピアノコンチェルト23番、同じくモーツアルトの交響曲25番他。
ピアノも指揮も、とハネケンは大活躍!
大病をしたあとだけに体調が心配だったが、パワーとユーモアあふれるコンサートで、お客さんは大喜びだった。
彼は同じ桐朋学園の1年後輩で、僕の奥さんとはピアノ科の同級生である。
学生時代からめちゃ上手いピアニストで、学校中の評判になっていた。特にフランスものが得意だったと記憶しているので聞いてみたら、ラヴェルとかラフマニノフが大好きということだった。
モーツアルトのピアノコンチェルトも好感の持てる演奏だ。べたべたせずにバシッと演奏する。
終了後はオケの若い女の子たちにせがまれて、カメラに収まっていた。
で、ついでに僕も再会を記念して・・・・パシャッ!
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いくつかのコンサート 其の弐
http://matocello.exblog.jp/977968/
2006-02-20T02:58:00+09:00
2006-02-27T02:59:09+09:00
2006-02-27T02:56:02+09:00
matocello
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40人ほどのお客さんが集まってくれて、「夢のあとに」や「鳥の歌」、ビバルディのソナタなど数曲を演奏した。
バレンタインデーというのは日本では「男性がチョコをもらう日」となっているが、どうも海のむこうでは逆らしいですぞ~。
本当に日本というのは商戦というか、宣伝に弱い種族のようですねぇ・・・
巷にあふれる粗悪な週刊誌やガセネタに振り回されないようにしましょう。
あ~、でも国民の代表議員先生が振り回されちゃってるんだから、どうしょうもないか。
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いくつかのコンサート 其の壱
http://matocello.exblog.jp/977815/
2006-01-23T02:36:00+09:00
2006-02-27T02:58:03+09:00
2006-02-27T02:36:07+09:00
matocello
未分類
ステージの写真は数枚撮ったのだが、みんなブレてしまって使い物にならなかった。
どうしてもデジカメで取るときはイージーにパシャパシャやってしまうから光量の不足している状態ではブレが出てしまう。
これはリハーサル中のピットの写真。中央の赤い台が指揮台である。
「くるみ割り人形」はもう何十回もやっているので、余裕の表情(笑)
困ったもんだなぁって顔してるのは、オケ代表の滝口さん
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毎日毎日寒くて・・・
http://matocello.exblog.jp/400900/
2006-01-17T10:23:52+09:00
2006-01-17T10:34:08+09:00
2006-01-17T10:23:51+09:00
matocello
日記
今年の冬は異常な寒さで、毎日のように雪の被害の報道が流れている。本当に雪の多い地域の皆さんは大変だと思う。静岡は比較的暖かく、すごしやすい気候なのだが、それでも今年は寒い!
どのような職業の方でも冬は辛いのであろうが、演奏家にとっても冬は指がカジカんで、筋肉は固くなって、辛い季節である。とは言っても、西洋音楽の発祥地であるドイツやオーストリア、なかんずくヨーロッパ全土は寒く、天候も暗い国が多い。
従ってこのような事は下手糞な演奏の言い訳にはならないか・・・
ここはひとつ、真夏の爽やかな北海道の写真でも見てパッと晴ればれしてみよう!!
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ニューイヤーコンサート
http://matocello.exblog.jp/366723/
2006-01-14T02:11:32+09:00
2006-01-14T22:10:39+09:00
2006-01-14T02:11:32+09:00
matocello
音楽
華やかなプリマのダンサーや、ジュニアのダンサーたちと共に、いつにない華やいだステージにお客さんも大喜びであった。
指揮者の堤俊作氏と出演のバレエダンサーの皆さん。今回はイタリア人のマシモ・アクリさん(写真右)が中心になって、振り付けや、ご自分のスクールのジュニアたちを出演させたり、踊ったりと、大活躍だった。
オーケストラの前にバレエのステージが設けられ、素晴らしい設営になった。
普段はピットに入っているオーケストラが、同じステージの上に乗っているので、ダンサーの皆さんもちょっと勝手が違ったのでは・・
オーケストラの大迫力サウンドにマシモさんも「びっくりした。感激して、緊張した」と、上手な日本語で話してくれた。
プリマの皆さんもオーケストラの音をとても気に入ってくれたようだ。
本番の合間に、次の室内楽演奏会のプログラム用写真を撮った。]]>
明けましておめでとうございます
http://matocello.exblog.jp/303078/
2006-01-07T17:16:35+09:00
2006-01-07T17:16:35+09:00
2006-01-07T17:16:35+09:00
matocello
未分類
そして、新年も正月から静岡と東京を行ったり来たり・・・。
6日に初レッスン、9日からニューイヤーコンサートの為に静岡に向かう。
それにしても、今年の正月は寒いこと!!
日本海側の方たちには気の毒なくらいの大雪で、亡くなられた方も多数出ているという。
正月5日には沼津、清水などという、普段雪とは縁のないところで雪が降った為に、東名高速道が通行止めになってしまった。
新幹線で静岡から横浜に向かう途中、富士川周辺の雪景色というのをはじめて見ることが出来た。
この写真は3日の日に静岡に向かう車中撮ったものだが、これだけ寒いと富士山は限りなく美しい。
この美しい富士を仰ぎ見つつ、雪の犠牲になられた方々に合掌。
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亡き友へ
http://matocello.exblog.jp/400654/
2005-11-17T09:04:00+09:00
2006-01-17T09:36:07+09:00
2006-01-17T09:36:07+09:00
matocello
音楽
まだ僕はそういった哲学的な言葉を残せるほど長く人生を生きたわけではないが、最近僕の周りに起きた悲しい出来事が、人の一生というものを改めて考えさせてくれたのだ。
つい最近、僕は近い友人を事故でなくし、本当に深い悲しみを味わった。
彼は藤岡宣男君というまだ充分に若く、日本でも有数の大変に優れたカウンターテナーの歌手で、ピアノがものすごく上手だった。
写真は夏に北海道の講習会に行った時に撮ったものである。(左から2人目が藤岡君)
僕は、彼が亡くなったあと、どうしても彼のために曲を書きたくなった。
僕は作曲家ではないが、思いつくままのメロディを五線紙に書いていった。そして、ひとつの曲を作った。
ピアノの下手糞な僕が、ピアノ曲を書いたのだ。
たいした曲ではないのだが、この小曲を書き上げたあと、僕の中で不思議なことに、友を失った悲しみが変化した。何と言ったらいいか・・、強いて言えば、永遠なるものに連なる昇華された愛情、みたいな感情に落ち着いたのだ。音楽の世界に於ける不思議な作用とでも言ったらいいのだろうか。
そもそも昔から人間は、生死という出来事、宗教的なものに音楽を深く関わらせてきた。原始の時代から悲しみを歌にし、それはやがてレクイエムのような芸術的に深い音楽をも誕生させてきた。いや、音楽に限らず、あらゆる芸術が、人生の様々な局面に於いて生の営みを讃歌する役割を担ってきたのだ。
小さな小さな恋心から始まり、宇宙と人の壮大な関わりまで、限りなく広がるテーマに歴史の芸術家たちは取り組んできたのである。
その人類の先達たちの恩恵を享受しつつ、これからの世界を砂漠化させない為にも、芸術を日々の生活に取り入れる努力をしていきたいものである。
永遠の友へ合掌。]]>
ファッション
http://matocello.exblog.jp/238465/
2005-09-30T16:29:00+09:00
2006-01-13T18:42:16+09:00
2005-12-30T16:30:29+09:00
matocello
教室の出来事
「先生たちの年代って、ズボンをどうして高いところではくんですか?」
一瞬、僕は彼女の言っている意味がわからなかったが、それはすぐに理解できた。
そうなのだ。最近の少年たちには、ズボンのベルトを極端に腰の下まで下げて穿くファッションが流行している。
これは、アメリカの黒人たちの少年のファッションに由来するのであろうが、それを見慣れた少女たちからすれば我々のズボンは、腰の上にずり上げて穿いているようにみえるのだろうか。
以前、ある中学に音楽鑑賞会の演奏会で行った時、校内で数名の男子生徒がズボンを腰の下までずらして穿いているのを見たことがあった。
ある少年はシャツもよれよれで、パンツまで見えていた。
僕は、学校という教育の場でそのような服装を見たのははじめてであったが、何か非常に異様なものを感じたのを覚えている。
それはまるで、トイレで用足しをしている最中に非常呼集をかけられて、ズボンをはく間もなく、あわてて飛び出してきた少年の様相なのである。
繁華街に出てみても、ベルトを家に忘れてきた茶髪の少年、うかつにもズボンのサイズを間違えて購入してしまった鼻ピアスの少年、いたるところに穴が開き、新しいズボンを買うことのできない貧しい少年たちが、路上などで座り込んで青春している姿を眼にすることが出来る。
ファッションというものは時代とともに変化し、また、それがその時代の世相を反映しているものである。
日本では、ファッションが統一化されるという傾向をよく耳にする。
少女のファッションで言えば、ルーズソックスに代表されるそれであろうか。
僕は時々老婆心ながら思う。
まだ汗ばむ季節に、首に分厚いマフラーを巻き、真冬の寒風吹きすさぶ中で素足に短いスカートを穿き、女性として最も冷やしてはいけない腹部を「へそ出しルック」で露出する。
格好いいファッションとは、なんと健全な肉体を蝕みつつ生まれるものか。
それでも、なおかつ流行のファッションに立ち向かう少年少女の努力に、心から幸あれと祈りたい。
この事は、「他人と違う行動や格好に、恥じらいや奇異な感情を抱く」という、日本人の国民性に起因するものであろうか。
古くから、「出る杭は打たれる」「長いものには巻かれろ」という言葉が日本を支配してきた。
現代に至って、そういった傾向もだいぶ薄らいで、個人の個性が主張される時代になってきたと思っていたのだが、よくよく世相を観察してみると、どうもそうとばかりも言っていられないようである。
今の少年少女の世界では、他人と違う事をすることが「仲間はずれ」の原因になるために、共同歩調を取ろうとする傾向が多く見られるという話を教育関係の方に聞いたことがある。
僕が以前ドイツに行ったときに会った少年たち。彼らは、あきらかに違っていた。
彼らは、幼くとも自立した人間として堂々と自己を主張し、その上で他人との友情を育んでいたのである。
フランス人は、スカーフひとつの扱いでも他人と違う個性を出すために工夫するそうである。
そういった国民性、土壌の中に、個性を主張するファッションが生まれ、個性豊かな芸術が生まれるのであろう。
われわれクラッシック演奏家のユニフォームの代表といえば、燕尾服。
今では殆ど着られることのなくなったこの古典的ファッションも、ステージの上で貴重な個性を発揮している。
しかし、いずれにせよユニフォームには、だらしない選択肢は許されてはいないのだ。
どんなにステージの上の照明が熱く、汗をかきかき演奏したとしても、そこにこそ人間精神の昇華というものがあるのだよ、少年諸君!]]>
パソコンおやじ
http://matocello.exblog.jp/238458/
2005-08-21T16:28:00+09:00
2007-05-14T14:04:30+09:00
2005-12-30T16:28:43+09:00
matocello
日記
長万部と、斜里町で講習会があって、栗山町でもコンサートをやったりと、結構忙しい日程をこなしていたのであるが、あまり疲れは感じることなく、14日に東京に無事生還した。
北海道は涼しいのかなと思っていたら、さにあらず。本州並みに暑くて、しかも冷房のついていない家が多いのだ。
我々の宿泊したペンション風ホテルでも冷房はなく、朝日の暑さで早くに目が覚めてしまい、寝不足状態が続いたのであった。
講習会の様子などはまた書くとして、今回一番必要だなと思ったのは、やはり、ノートパソコンである。
あの重いパソコンを持ち歩いているビジネスマンをみるたびに、いつも気の毒に思っていたのだが、今回2週間という長い期間本拠地を離れることになって、その必要性を痛感してしまった。
なにせ楽譜を書くにも、アレンジをするにも、メールを打つにも、写真を見るにも、この日記を書くにもパソコンが必要なのである。
こうなると、いつの間にか僕も立派なパソコンオヤジになってしまっていたことに気づく。
SF漫画のようにコンピュータに操られる人間になってしまうのか!うう、悲しい・・・とすらもいっていられない。
ここまで生活にコンピュータが入り込んでくると、昔の人は偉かったんだなあなんて、妙に感心してしまう。
でも、さすがにチェロを弾くときだけは必要ないのが、なんか無性に嬉しい!
やっぱり、人間、アナログな部分を大切にしましょうよ、ね、皆さん]]>
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