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2012年 06月 24日
ベートーヴェンの第5交響曲「運命」で有名になった表題の「運命」という神的領域の存在は、人類史の中で多くの人間の生活の上に多種多様の悲喜劇のドラマを生み出してきました。
人はそれぞれ畏怖するもの、敬愛するもの、執着するものなどがさまざまに異なりますが、一様に忌むべきものとして捕えられているのが「死」ではないでしょうか。 私は中学を過ぎた頃より、人の「死」というものに対する恐怖を非常に強く意識するようになりました。それは、私が多感であったその時期に、大好きだった叔父が上顎がんに侵され、闘病の末に壮絶な最後を遂げた姿を目の当たりにしたせいなのかもしれません。 幼少より音楽の道を歩んでいた私はやがて高校、大学と進むうちに、人の才能、貧富、容姿、などが生まれながらにして平等ではないということを感じるようになりました。 「人は生まれながらにして決して平等ではない」という意識は、やがて、個々人の「宿命」や「運命」というものと結びつくようになっていきました。 私は偏狭な運命論者ではありませんが、「人は己の持つ宿命や運命に強く人生を支配されている」というのは私の哲学です。それは、後年、それぞれの人生の軌跡をたどっていった時に明らかなる道筋として浮かび上がってくるもので、渦中にいる間はなかなかその存在にすら気がつかないものです。 先日、私は医学博士で東洋哲学研究所所長の川田洋一博士の著書、「宿命は変えられる」(第三文明社)という本を読んで大変に感銘を受けました。 博士は京都大学医学部で学ばれ、在学当時からドストエフスキーなどを愛読されてフロイトの「精神分析」などを研究されたそうです。その後、ユングの「深層心理学」などを学ばれ、仏教にも興味を持つようになったと書かれています。 そしてこの著では、フロイト、ソンディ、ユングらの西洋心理学と、東洋の仏教、とりわけ釈尊や天台の「法華経」とを縦横に論じながら人間の持つ生命の内奥の法則に迫ろうとされています。 書では、はじめに釈尊の出家のモチーフである「生・老・病・死」について触れたあと、釈尊の瞑想が「自我意識」を基点として「内なる宇宙」、すなわち己自身の生命の内奥の探求に向いていった事を解説しています。この人間生命の深層領域への探求は、西洋心理学では、フロイトの「無意識層」の発見、その後ソンディ、ユングからマスローらのトランスパーソナル心理学へと引き継がれていったと書かれています。 さらに、稀有の歴史学者であるアーノルド・トインビー博士の見識を紹介され、現代科学の二つの大きな発見を「物理的自然の領域」における「相対性」と、「心理の領域」における「無意識の深淵の解明」であるとしています。 そこで紹介されているトインビー博士の言葉は実に興味深いものがあります。それは、「相対性の発見が、物理的宇宙における人間の重要性に対するわれわれの評価を、あらためて少しばかり持ち上げたとして、人間心理の潜在意識の深淵の発見は、心理を媒体としての一個の人間は、それ自体で一つの宇宙であることを、われわれに教えた」(アーノルド・トインビー他、青柳晃一他訳「死について」筑摩書房)というものです。 私はこの文章を読んだとき、心の中にあるひとつの霧がスッと晴れていくのを感じました。通常、人間生命に内在する法則を解明しようというのは「医学の分野の仕事」と思われており、このようなヒトの心的側面の学問、とりわけ「深層心理学」の分野から人間生命そのものの解明に向かおうとするアプローチは、著者の言葉を借りれば「釈尊の悟達の究極に位置する宇宙根源のダルマ(法)」を万人が享受し得る法則として現代に蘇らせ、且つ展開させようという試みであり、現代の不毛の時代にあって暗夜の一光のような貴重な意味を持つと思われます。 現代の世界中におけるさまざまな凶暴かつ不幸な事件が「生命不尊」の哲学の横行によってもたらされているものだとしたら、これら偉大な先哲たちの持つ光が今こそ必要なのではないでしょうか。なぜなら、トインビー博士の結論「一個の人間の存在はそれ自体で一つの宇宙である」という哲学が、究極の生命尊重の哲学であり、現代を覆う生命軽視の哲学の対極に位置するものだからです。 フロイトは、『人間は中年期を過ぎると「死」への準備に入らなければならない』とのべていますが、この本では万人の共通の宿命である「死」の問題を深く掘り下げて探求していく時、人間生命の内奥に確実に存在する深層領域の根底に宇宙とのつながりを見出し、それが他者と深いつながりを持っていることを発見すると論じています。それが仏教で説かれる「縁起」という思想であり、「自己」と「他者」の壁を乗り越える「寛容の精神」に結びつくものであるとしています。 そして著者は最後に、『宇宙生命としての「法性」(現象の奥にある生命のありのままの姿)の「起」が生命体の「生」となり、「法性」の「滅」が生命体の「死」となるとすれば「生」と「死」は「法性」の次元に於いて一体である。換言すれば個々の生命体は「法性」、すなわち宇宙生命の基盤においては「生死」は「不二」であり、現象世界においては「生」と「死」の「而二」として顕在化と潜在化を繰り返すのです。』と述べられ、「宿命」とは永遠に続く個々の生命体が活動を繰り返す軌跡の中に形成されるものであり、現在の「行い」の中にこそ、その宿命を変える可能性の鍵が秘められていると結論されています。 要約すれば、現在の生活の中に見え隠れする鍵穴に、いかにして有効なキーを差し込むことが出来るかが「宿命」という道を変えゆくポイントであるということになるでしょう。 大いなる生命体の融合である「地球世界」を「平和の文明」へと導くための重要なカギがここに存在し、こうした人間生命を洞察した深遠な哲学を人類が共有するためにも、歴史上繰り返されてきたあらゆる異なる民族、宗教が対立した不毛な戦いを終焉に導く「宗教間対話」が必要であると叫ばれています。 「音楽」も時として野蛮な殺戮や独裁者の喧伝に利用されてきた残念な歴史が少なからずありますが、われわれ音楽家は心して平和な文化構築のために音楽を用いていくことが必要であり、そのためには自己の内面世界への探究、自己啓発に日々精進、努力することが大切である事を、この本を読んで改めて認識いたしました。
by matocello
| 2012-06-24 00:07
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